14本のエピソード

第二部は尾道の生活からはじまります。 これからどのように綴られてゆくのでしょうか。ご一緒にお楽しみいただければ幸いです。 えぷろん

林芙美子 新版放浪記 第二‪部‬ えぷろん

    • アート
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第二部は尾道の生活からはじまります。 これからどのように綴られてゆくのでしょうか。ご一緒にお楽しみいただければ幸いです。 えぷろん

    林 芙美子 放浪記第二部 その14(終)

    林 芙美子 放浪記第二部 その14(終)

    参照テキスト: 青空文庫図書カード№1813

    音声再生時間: 40分00秒shinpan-hourouki2-14end.mp3

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     私は生きる事が苦しくなると、故郷というものを考える。死ぬる時は古里で死にたいものだとよく人がこんなことも云うけれども、そんな事を聞くと、私はまた故郷と云うものをしみじみと考えてみるのだ。
     毎年、春秋になると、巡査がやって来て原籍をしらべて行くけれど、私は故郷というものをそのたびに考えさせられている。「貴女のお国は、いったいどこが本当なのですか?」と、人に訊(き)かれると、私はぐっと詰ってしまうのだ。私には本当は、古里なんてどこでもいいのだと思う。苦しみや楽しみの中にそだっていったところが、古里なのですもの。だから、この「放浪記」も、旅の古里をなつかしがっているところが非常に多い。――思わず年を重ね、色々な事に旅愁を感じて来ると、ふとまた、本当の古里と云うものを私は考えてみるのだ。私の原籍地は、鹿児島県、東桜島、古里温泉場となっています。全く遠く流れ来つるものかなと思わざるを得ません。私の兄弟は六人でしたけれど、私は生れてまだ兄達を見た事がないのです。一人の姉だけには、辛い思い出がある。――私は夜中の、あの地鳴りの音を聞きながら、提灯をさげて、姉と温泉に行った事を覚えているけれど、野天の温泉は、首をあげると星がよく光っていて、島はカンテラをその頃とぼしていたものだ。「よか、ごいさ。」と、云ってくれた村の叔母さん達は、皆、私を見て、他国者と結婚した母を蔭でののしっていたものだ。もうあれから十六七年にはなるだろう。
     夏になると、島には沢山青いゴリがなった。城山へ遠足に行った時なんか、弁当を開くと、裏で出来た女竹(めたけ)の煮たのが三切れはいっていて、大阪の鉄工場へはいっていた両親を、どんなにか私は恋しく思った事です。――冬に近い或る夜。私は一人で門司まで行った記憶もあります。大阪から父が門司までむかいに来てくれると云う事でしたけれど、九ツの私は、五銭玉一ツを帯にくるくる巻いてもらって、帯に門司行きの木札をくくって汽車に乗ったものです。
     肉親とはかくもつれなきものかな! 花が何も咲いていなかったせいか、私は門を出がけに手にさわった柊(ひいらぎ)の枝を折って、門司まで持って行ったのを覚えています。門司へ着くまで、その柊の枝はとても生々していました。門司から汽船に乗ると、天井の低い三等船室の暗がりで、父は水の光に透かしては、私の頭の虱(しらみ)を取ってくれた。鹿児島は私には縁遠いところである。母と一緒に歩いていると、時々少女の頃の淋しかった自分の生活を思い出して仕方がない。
    「チンチン行きもんそかい。」
    「おじゃったもはんか。」
     などと云う言葉を、母は国を出て三十年にもなるのに、東京の真中で平気でつかっているのだ。――長い事たよりのなかった私達に、姉が長い手紙をくれて言う事には、「母さん! お元気ですか、いつもお案じ申しています。私はこの春、男の子を産みましたけれど、この五月は初のせっくです、華やかに祝ってやりたくぞんじます。」私はその手紙を見て、どんなにか厭な思いであった。そうして

    • 40分
    林 芙美子 放浪記第二部 その13

    林 芙美子 放浪記第二部 その13

    参照テキスト: 青空文庫図書カード№1813

    音声再生時間: 24分30秒shinpan-hourouki2-13a.mp3


            *

    (二月×日)
     私は私がボロカス女だと云うことに溺れないように用心をしていた。街を歩いている女を見ると、自分のみっともなさを感じないけれども、何日も食えないで、じっと隣室の長閑(のどか)な笑い声を聞いていると、私は消えてなくなりたくなるのだ。死んだって生きていたって不必要な人間なんだと考え出してくると、一切合切がグラグラして来て困ってしまう。つかみどころなき焦心、私の今朝の胃のふが、菜っぱ漬けだけのように、私の頭もスカスカとさみしい風が吹いている。極度の疲労困憊(こんぱい)は、さながら生きているミイラのようだ。古い新聞を十度も二十度も読みかえして、じっと畳に寝ころんでいる姿を、私はそっと遠くに離れて他人(ひと)ごとのように考えている。私の体はいびつ、私のこころもいびつなり。とりどころもない、燃えつくした肉体、私はもうどんなに食えなくなってもカフエーなんかに飛び込む事は止やめましょう。どこにも入れられない私の気持ちに、テラテラまがいものの艶ぶきをかけて笑いかける必要はないのだ。どこにも向きたくないのなら、まっすぐ向うを向いていて飢えればいいのだ。

     夜。
     利秋君が、富山の薬袋に米を一升持って来てくれる。この男には、何度も背負い投げを食わしたけれど、私はこんなアナキストは嫌いなのだ。「貴女が死ぬほど好きだ。」と言ってくれたところで、大和館でのように、朝も晩も朝も晩も遠くから私を監視している状態なんて、私の好かないところです。
    「もう当分御飯を食べる事を休業しようかと思っていますのよ。」
     私は固く扉を閉ざしてかぎをかけた。少しばかり腹を満たしたいために、不用な渦を吸いたくなかった。頭の頂天まで飢えて来ると鉄板のように体がパンパン鳴っているようで、すばらしい手紙が書きたくなってくる。だが、私はやっぱり食べたいのです。ああ私が生きてゆくには、カフエーの女給とか女中だなんて! 十本の指から血がほとばしって出そうなこの肌寒さ……さあカクメイでも何でも持って来い。ジャンダークなんて吹っ飛ばしてしまおう。だがとにかく、何もかもからっぽなのだ。階下の人達が風呂へ行ってる隙に味噌汁を盗んで飲む。神よ嗤(わら)い給え。あざけり給えかし。
     あああさましや芙美子消えてしまえである。
     働いていても、自分には爪の垢ほども食べるたしにはならないなんて、今までの生活(くらし)むきは、細く長くだった。ああ一円の金で私は五日も六日も食べていった事があった。死ぬる事なんていつも大切に取っておいたのだけれど、明日にも自殺しようかと考えると、私はありったけのぼろ屑(くず)を出して部屋にばらまいてやった。生きている間の私の体臭、なつかしやいとしや。疲れてドロドロに汚れた黒いメリンスの衿(えり)に、垢と白粉(おしろい)が光っている。私は子供のように自分の匂いをかぎました。この着物で、むかし、私はあのひとに抱かれたのです。あの思い! この思い! 蒼(あお)ざめて血の上って来る孤独の女よ、むねを抱いた両手の中には、着物や帯や半衿のあらゆる汚れから来る体臭のモンタージュな

    • 24分
    林 芙美子 放浪記第二部 その12

    林 芙美子 放浪記第二部 その12

    参照テキスト: 青空文庫図書カード№1813

    音声再生時間:25分52秒shinpan-hourouki2-12a.mp3


            *

    (二月×日)
     黄水仙の花には何か思い出がある。窓をあけると、隣の家の座敷に燈火がついていて、二階から見える黒い卓子の上には黄水仙が三毛猫のように見えた。階下の台所から夕方の美味(おい)しそうな匂いと音がしている。二日も私は御飯を食べない。しびれた体を三畳の部屋に横たえている事は、まるで古風なラッパのように埃(ほこり)っぽく悲しくなってくる。生唾(なまつば)が煙になって、みんな胃のふへ逆もどりしそうだ。ところで呆然としたこんな時の空想は、まず第一に、ゴヤの描いたマヤ夫人の乳色の胸の肉、頬の肉、肩の肉、酸っぱいような、美麗なものへ、豪華なものへの反感が、ぐんぐん血の塊のように押し上げて来て、私の胃のふは旅愁にくれてしまった。いったい私はどうすれば生きてゆけるのだ。
     外へ出てみる。町には魚の匂いが流れている。公園にゆくと夕方の凍った池の上を、子供達がスケート遊びをしていた。固い御飯だって関(か)まいはしないのに、私は御飯がたべたい。荒れてザラザラした唇には、上野の風は痛すぎる。子供のスケート遊びを見ていると、妙に切ぱ詰った思いになって涙が出た。どっかへ石をぶっつけてやりたいな。耳も鼻も頬も紅あかくした子供の群れが、束子(たわし)でこするようにキュウキュウ厭な音をたてて、氷の上をすべっていた。――一縷(いちる)の望みを抱いて百瀬さんの家へ行ってみる。留守なり。知った家へ来て、寒い風に当る事は、腹がへって苦しいことだ。留守居の爺さんに断って家へ入れて貰う。古呆けて妖怪じみた長火鉢の中には、突きさした煙草の吸殻が葱(ねぎ)のように見えた。壁に積んである沢山の本を見ていると、なぜだか、舌に唾が湧いて来て、この書籍の堆積(たいせき)が妙に私を誘惑してしまう。どれを見ても、カクテール製法の本ばかりだった。一冊売ったらどの位になるのかしら、支那蕎麦そばに、てん丼どんに、ごもく寿司、盗んで、すいている腹を満たす事は、悪い事ではないように思えた。火のない長火鉢に、両手をかざしていると、その本の群立が、大きい目玉をグリグリさせて私を嗤(わら)っているように見える。障子の破れが奇妙な風の唄をうたっていた。ああ結局は、硝子(ガラス)一重さきのものだ。果てしもなく砂に溺(おぼ)れた私の食慾は、風のビンビン吹きまくる公園のベンチに転がるより仕ようがない。へへッとにかく、二々が四である。たった一枚のこっている、二銭銅貨が、すばらしく肥え太ったメン鶏にでも生れかわってくれないかぎり、私の胃のふは永遠の地獄だ。歩いて池(いけ)の端(はた)から千駄木町に行った。恭ちゃんの家に寄ってみる。がらんどうな家の片隅に、恭ちゃんも節ちゃんも凸坊も火鉢にかじりついていた。這(は)うような気持ちで御飯をよばれる。口一杯に御飯を頬ばっている時、節ちゃんが、何か一言優しい言葉をかけてくれたのでやみくもに涙が溢(あふ)れて困ってしまった。何だか、胸を突き上げる気持ちだった。口のなかの飯が、古綿のように拡がって、火のような涙が噴きこぼれてきた。塩っぱい涙をくくみながら、声を挙げて泣

    • 25分
    林 芙美子 放浪記第二部 その11

    林 芙美子 放浪記第二部 その11

    参照テキスト: 青空文庫図書カード№1813

    音声再生時間: 24分52秒shinpan-hourouki2-11a.mp3

            *

    (十二月×日)
    「飯田がね、鏝(こて)でなぐったのよ……厭になってしまう……」
     飛びついて来て、まあよく来たわね、と云ってくれるのを楽しみにしていた私は、長い事待たされて、暗い路地の中からしょんぼり出て来たたい子さんを見ると、不図(ふと)自動車や行李(こうり)や時ちゃんが何か非常に重荷になってきてしまって、来なければよかったんじゃないかと思えて来た。
    「どうしましょうね、今さらあのカフエーに逆もどりも出来ないし、少し廻って来ましょうか、飯田さんも私に会うのはバツが悪いでしょうから……」
    「ええ、ではそうしてね。」
     私は運転手の吉さんに行李をかついでもらうと、酒屋の裏口の薬局みたいな上りばなに行李を転がしてもらって、今度は軽々と、時ちゃんと二人で自動車に乗った。
    「吉さん! 上野へ連れて行っておくれよ。」
     時ちゃんはぶざまな行李がなくなったので、陽気にはしゃぎながら私の両手を振った。
    「大丈夫かしら、たい子さんって人、貴女の親友にしちゃあ、随分冷たい人ね、泊めてくれるかしら……」
    「大丈夫よ、あの人はあんな人だから、気にかけないでもいいのよ、大船に乗ったつもりでいらっしゃい。」
     二人はお互に淋しさを噛み殺していた。
    「何だか心細くなって来たわね。」
     時ちゃんは淋しそうに涙ぐんでいる。

    「もうこれ位でいいだろう、俺達も仕事しなくちゃいけないから。」
     十時頃だった、星が澄んで光っている。十三屋の櫛屋のところで自動車を止めてもらうと、時ちゃんと私は、小さい財布を出して自動車代を出した。
    「街中乗っけてもらったんだから、いくらかあげなきゃあ悪いわ。」
     吉さんは、私達の前に汚れた手を出すと、
    「馬鹿! 今日のは俺のセンベツだよ。」と云った。
     吉さんの笑い声があまり大きかったので、櫛屋の人達もビックリしてこっちを見ている。
    「じゃ何か食べましょう、私の心がすまないから。」
     私は二人を連れると、広小路のお汁粉屋にはいった。吉さんは甘いもの好きだから、ホラお汁粉一杯上ったよ! ホラも一ツ一杯上ったよ! お爺さんのトンキョウな有名な呼び声にも今の淋しい私には笑えなかった。「吉さん! 元気でいてね。」時ちゃんは吉さんの鳥打帽子の内側をかぎながら、子供っぽく目をうるませていた。――歩いて私達が本郷の酒屋の二階へ帰って行った時はもう十二時近かった。夜更けの冷たい鋪道の上を、支那蕎麦屋の燈火が通っているきりで、二人共沈黙って白い肩掛を胸にあわせた。

     酒屋の二階に上って行くと、たいさんはいなくて、見知らない紺がすりの青年が、火の気のない火鉢にしょんぼり手をかざしていた。何をする人なのかしら……私は妙に白々としたおもいだった。寒い晩である。歯がふるえて仕方がない。
    「たい子さんと云うひとが帰らなければ私達は寝られないの?」
     時ちゃんは、私の肩にもたれて、心細げに聞いている。
    「寝たっていいのよ、当分ここにいられるんだもの、蒲団を出してあげましょうか。」
     押入れをあけると、プンと淋しい女の一人ぐらしの匂いをかいだ。たい子さんだって淋しいのだ。大き

    • 24分
    林 芙美子 放浪記第二部 その10

    林 芙美子 放浪記第二部 その10

    参照テキスト: 青空文庫図書カード№1813

    音声再生時間: 26分04秒shinpan-hourouki2-10a.mp3

            *

    (九月×日)
     古い時間表をめくってみた。どっか遠い旅に出たいものだと思う。真実のない東京にみきりをつけて、山か海かの自然な息を吸いに出たいものなり。私が青い時間表の地図からひらった土地は、日本海に面した直江津(なおえつ)と云う小さい小港だった。ああ海と港の旅情、こんな処へ行ってみたいと思う。これだけでも、傷ついた私を慰めてくれるに違いない。だけど今どき慰めなんて言葉は必要じゃない。死んでは困る私、生きていても困る私、酌婦にでもなんでもなってお母さん達が幸福になるような金がほしいのだ。なまじっかガンジョウな血の多い体が、色んな野心をおこします。ほんとに金がほしいのだ!
     富士山――暴風雨
     停車場の待合所の白い紙に、いま富士山は大あれだと書いてある。フン! あんなものなんか荒れたってかまいはしない。風呂敷包み一つの私が、上野から信越線に乗ると、朝の窓の風景は、いつの間にか茫々とした秋の景色だった。あたりはすっかり秋になっている。窓を区切ってゆく、玉蜀黍(とうもろこし)の葉は、骨のようにすがれてしまっていた。人生はすべて秋風万里、信じられないものばかりが濁流のように氾濫(はんらん)している。爪の垢(あか)ほどにも価しない私が、いま汽車に乗って、当もなくうらぶれた旅をしている。私は妙に旅愁を感じると瞼(まぶた)が熱くふくらがって来た。便所臭い三等車の隅ッこに、銀杏返(いちょうがえ)しの鬢(びん)をくっつけるようにして、私はぼんやりと、山へはいって行く汽車にゆられていた。


    古里の厩(うまや)は遠く去った
    花がみんなひらいた月夜
    港まで走りつづけた私であった

    朧(おぼろ)な月の光りと赤い放浪記よ
    首にぐるぐる白い首巻をまいて
    汽船を恋した私だった。


     一切合切が、何時も風呂敷包み一つの私である。私は心に気弱な熱いものを感じながら、古い詩稿や、放浪日記を風呂敷包みから出しては読みかえしてみた。体が動いているせいか、瞼の裏に熱いものがこみあげて来ても、詩や日記からは、何もこみ上げて来る情熱がこない。たったこれだけの事だったのかと思う。馬鹿らしい事ばかりを書きつぶして溺(おぼれ)ている私です。
     汽車が高崎に着くと、私の周囲の空席に、旅まわりの芸人風な男女が四人で席を取った。私はボンヤリ彼等を見ていた。彼達は、私とあまり大差のないみすぼらしい姿である。上の網棚には、木綿の縞の風呂敷でくるんだ古ぼけた三味線と、煤(すす)けたバスケットが一つ、彼達の晒された生活を物語っていた。
    「姐御(あねご)はこっちに腰掛けたら……」
     同勢四人の中の、たった一人の女である姐御と呼ばれた彼女は、つぶしたような丸髷(まるまげ)に疲れた浴衣である。もう三十二三にはなっているのだろう、着崩れた着物の下から、何か仇(あだ)めいた匂いがして窶(やつ)れた河合武雄と云ってもみたい女だった。その女と並んで、私の向う横に腰かけたつれの男は額がとても白い。紺縮みの着物に、手拭のように細いくたびれた帯をくるくる巻いて、かんしょうに爪をよく噛(か)んでいた。
    「ああとてもひでえ目

    • 26分
    林 芙美子 放浪記第二部 その9

    林 芙美子 放浪記第二部 その9

    参照テキスト: 青空文庫図書カード№1813

    音声再生時間:24分55秒shinpan-hourouki2-9a.mp3

            *

    (五月×日)
     六時に起きた。
     昨夜の無銭飲食の奴のことで、七時には警察へ行かなくてはならない。眠くって頭の芯(しん)がズキズキするのをこらえて、朝の街に出てゆくと、汚い鋪道(ほどう)の上に、散しの黄や赤が、露にベトベト濡れて陽に光っていた。四谷(よつや)までバスに乗る。窓硝子(ガラス)の紫の鹿(か)の子(こ)を掛けた私の結い綿の頭がぐらぐらしていて、まるでお女郎みたいな姿だった。私はフッと噴き出してしまう。こんな女なんて……どうしてこんなに激しくゆられ、ゆすぶられても、しがみついて生きていなくてはならないのだろう! 何とコッケイなピエロの姿よ。勇ましくて美しい車掌さん! 笑わないで下さいね。なまめかしく繻子(しゅす)の黒襟(くろえり)を掛けたりしているのですが、私だって、貴女みたいにピチピチした車掌さんになろうとした事があったんですよ。貴女と同じように、植物園、三越、本願寺、動物園なんて試験を受けた事があるんです。近眼ではねられてしまったんだけれど、私は勇ましい貴女の姿がうらやましくて仕方がない。――神宮外苑(がいえん)の方へ行く道の、一寸高い段々のある灰色の建物が警察だった。八ツ手の葉にいっぱい埃(ほこり)がかぶさったまま露がしっとりとしていて、洞穴のような留置場の前へはいって行くと、暗い刑事部屋には茶を呑んでいる男、何か書きつけている男、疲れて寝ころんでいる男、私はこんなところへまで、昨夜の無銭飲食者に会いにこなければならないのかしらと厭(いや)な気持ちだった。ここまで取りに来なければ十円近くの金は、私が帳場に立て替えなければならないし、転んでも只では起きないカフエーのからくりを考えると厭になる。結局は客と女給の一騎打ちなのだ。ああ金に引きずりまわされるのがとても胸にこたえてくる。店の女達が、たかるだけたかっておいて、勘定になると、裏から逃げ出して行った昨夜の無銭飲食者の事を思うと、わけのわからないおかしさがこみ上げて来て仕方がなかった。
    「代書へ行って届書をかいて来い、アーン!」
     あぶくどもメ! 昨夜の無銭飲食者が、ここではすばらしい英雄にさえ思える。
     代書屋に行って書いてもらったのが一時間あまりもかかった。茶が出たり塩せんべいが出たり、金を払うだんになると、二枚並べた塩せんべいの代金まではいっている。全く驚いてしまった。届書を渡して、引受人のような人から九円なにがしかをもらって外に出ると、もうお昼である。規律とか規則とかと云うものに、私はつばきを引っかけてけいべつをしてやりたくなった。
     帰って帳場に金を渡して二階へ上ると、皆はおきて蒲団をたたんでいる処だった。掃除をすっぽかして横になる。五月の雲が真綿のように白く伸びて行くのに、私は私の魂を遠くにフッ飛ばして、棒のように石のように私は横になって目をとじているのだ。悲しや、おいたわしや、お芙美さん、一ツ手拍子そろえて歌でも唄いましょう。


    陸の果てには海がある。
    白帆がゆくよ。


    (五月×日)
     時ちゃんが、私に自転車の乗りかたを教えてくれると云うので、掃除が済むと

    • 24分

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