ドミトリ・ショスタコーヴィチ

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ドミトリ・ショスタコーヴィチについて

ロシアの神童ことドミートリイ・ショスタコーヴィチは、長じてソビエト音楽界の“良心”ともいうべき芸術家としての地位を確立し、体制側の人間となった。1906年、音楽好きの両親の下に生まれたショスタコーヴィチは、幼い頃から才能を発揮し、サンクトペテルブルク音楽院(当時はレニングラード音楽院)の院長だったグラズノフに認められ、13歳で入学を許可された。ロシア革命直後の混乱期には無声映画の伴奏ピアニストとして働き、家計を支えた。1925年には19歳にして最初の交響曲を完成させる。無声映画の音楽の鮮やかな寸描や突然の場面転換といった表現方法が生かされたこの作品は、多くの著名な指揮者や作曲家たちに絶賛され、瞬く間に世界のオーケストラに取り上げられるようになった。ところが1936年、その4年前に作曲されて人気を博していたオペラ『Lady Macbeth of Mtsensk(ムツェンスク郡のマクベス夫人)』が、社会主義リアリズムを欠く作品として政府に糾弾される。何千人もの人々が逮捕され、裁判もなく処刑される時代に行われたこのあからさまな脅しは、ショスタコーヴィチを変えてしまった。1937年に書かれた『Symphony No. 5』以降の作品では人前で口にすることができない怒りや絶望が表現されているとされ、また、自身に対する皮肉やあざけりが込められているとも言われる。一方、1962年に作曲した『Symphony No. 13, “Babi Yar”』では、ウクライナの峡谷、バビ・ヤールで虐殺された多くのユダヤ人を追悼すると同時に、あざ笑いながら市民を虐待するソビエトの体制を非難するエフゲニー・エフトゥシェンコの詩を使うといったように、直接的な表現で当局に異議を申し仕立てることもあった。それでもショスタコーヴィチは1975年に亡くなった時、“ソビエトの偉大な芸術家”としてたたえられた。

出身地
St. Petersburg, Russia
生年月日
1906年9月25日
ジャンル
クラシック

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