先行リリース
- 1900年1月1日
- 4曲
- この素晴らしき世界 · 1967年
- Ella and Louis · 1956年
- Ella and Louis · 1956年
- Satchmo Serenades · 1951年
- サッチモ・シングス・ディズニー · 1968年
- Ella and Louis · 1956年
- The Very Best of Louis Armstrong · 1950年
- Ella and Louis · 1956年
- Ella and Louis · 1956年
- Ella and Louis · 1956年
必聴アルバム
- ジャズの歴史は深く複雑にからんでいるため、巨匠ルイ・アームストロングのほんの一部の功績でさえ、一つにまとめるには大変な工夫を要したと思われる。本作は1925年から1928年あたりのベスト盤で、どこを切り取っても時代の息吹があふれている。冒頭の"Heebie Jeebies"は彼の楽団における最初のヒット曲であるばかりか、彼が考案したとされるスキャットを初めて録音したもの。本作以降、バンドは飛躍的な成長を遂げるが、その背景には新加入したアール・ハインズの存在が大きい。"West End Blues"や"Tight Like This"での彼のピアノは歌心にあふれ、時代の豊かさをしのばせる。
- 1920年代初頭を頂点に、King Oliver率いるCreole Jazz Bandの活躍には目覚ましい勢いがあった。ただし、技術環境が不十分で、当時の録音には限りがある。その点においても幻のミュージシャンと呼ぶにふさわしい。このアルバムは1923年から1924年までに録音された貴重な音源ばかりを収録。"Just Gone"、"Weather Bird Rag"といった軽快なナンバーと、ブルースナンバーの"Canal Street Blues"と"Chimes Blues"がバランス良く配合されている。かたやアームストロング在籍のThe Red Onion Jazz Babiesは短命だったが、彼らの歴史的名演"Terrible Blues"は必聴。
- プロデューサーのノーマン・グランツは、ルイ・アームストロングとエラ・フィッツジェラルドというアメリカの才能あふれるアーティストの組み合わせで、1956年に「Ella and Louis」、1957年に「Ella and Louis Again」という2枚のアルバムをVerve Recordsから発信していた。そして、「Porgy And Bess」は、「Ella and Louis Again」からわずか数か月後、ネルソン・リドルが編曲/指揮を務めた1959年の「Ella Fitzgerald Sings the George and Ira Gershwin Songbook」に先駆けて録音された。これはエラの一連のソングブックシリーズに追加される重要な作品であり、ガーシュウィンの特別な一面を拡大させて表現することで、多くのジャズアーティストにとって魅力的な素材となった(マイルス・デイヴィスとギル・エヴァンスは、1959年3月、原曲を大胆に解釈し直した独自の「Porgy and Bess」をリリース)。エラとルイは、アレンジャーのラッセル・ガルシアの刺激的でスイングする豪華な編曲と共に、ガーシュウィン自身が「フォークオペラ」と呼んだ物語への深い感情的な想いを伝えている。 1935年(それはガーシュウィンが38歳で亡くなる2年前)に初演されたオペラは、彼の野心的な挑戦であり、極めて複雑だったといえるだろう。なぜなら、白人の有名作曲家が、アフリカ系アメリカ人の独自の言語であるブルースとジャズを使って彼らの人生を描き出そうとしたのだから。スコット・ジョプリンを含む多くの黒人作曲家たちはガーシュウィンより数十年前からアメリカの「フォークオペラ」を作り出すことを試みていたが、彼らでさえ高い評価を得ることはできなかった。1930年代、歪んだ黒人観を助長させると批判されていた「Porgy And Bess」。そして時に人種差別と公民権に対して不十分な態度と不当に非難されていたルイ・アームストロングにとっては、その狭間に苦しんだことだろう。歴史的な流れを踏まえて聴くと、かかるような問題を引き起こすのも当然かもしれない。だが音楽自身が持つ純粋で圧倒的な美しさは、そんな批判を超越していると言える。 ルイ・アームストロングが"俺らはないものだらけ"の最初のコーラスで奏でるトランペットはまるで宝石のようなメロディで、その後のエラ・フィッツジェラルドの意気揚々とした「I am glad I’m alive(生きていて良かった)」という歌詞がキラキラと光り輝く。また、ルイ・アームストロングが悲しみを込めて歌う「Bess, You Is My Woman Now(ベス、お前は俺のものだ)」はリズムから外れ、エラ・フィッツジェラルドの「Porgy, I’se Your Woman Now(ポーギー、私はあなたのものよ)」は自信たっぷりにオンテンポへと歌を導く。エラ・フィッツジェラルドの歌う「There’s no wrinkle on my brow(眉間のしわは寄せないわ)」の繊細な表現は、天上から降りてくるような素晴らしさに満ちている。そして、"女は一時の慰みものさ"におけるルイ・アームストロングのヴォーカルには、1920年代に彼自身が本来生み出したスイング感が活かされ、エラ・フィッツジェラルドのソロバラード"私はここにいたい"("I Loves You, Porgy"の別名で知られる)においては、ただただ息をのむような仕上がり。他にも"私の人は死んでしまった"、間奏曲"ハゲ鷹の歌"、そして、"オー、ドクター・ジーザス"など、心をかき乱されながらも忘れがたいナンバーでの歌声は、まさに「First Lady of Song」の異名にふさわしい。これらの多くの要素によって、「Porgy And Bess」は、その時代の最も偉大なヴォーカルアルバムの一つに数えられ、象徴的名盤との評価を得ている。
- 1956年
- 2005年
- 1994年
- 1994年
- 1991年
アーティストプレイリスト
- ニューオーリンズジャズからスウィング、スタンダードまで、幅広い音楽性を聴く。
- 2019年
- 2017年
- 2024年
- 2023年
- 2023年
- 2023年
参加作品
- Nina & Frederik
- King Oliver's Creole Jazz Band
ルイ・アームストロングについて
1901年にジャズの発祥地ニューオーリンズで誕生したルイ・“サッチモ”・アームストロングは、この音楽的に豊かな街の出身者の中で最も重要な人物である。アームストロングはまず1922年にシカゴに移住してコルネット奏者のJoe King Oliverが率いるバンドに加入し、翌年にグループのメンバーとして最初のレコーディングを行った。その驚異的な創造力で名声を高めたアームストロングは、1925年から1928年まで自身のグループ、The Hot FiveとThe Hot Sevenを結成して活動した。初期の彼は、OliverのCreole Jazz Bandでマスターした初期ジャズの対位法スタイルを好んでいたが、間もなく、それぞれの曲のコードチェンジを滑るように即興演奏するジャズソロの先駆者となった。彼の驚異的な演奏技術は他のミュージシャンたちの影を薄くしてしまうほどで、見事なメロディ、本質的にはブルージーな質感、独創的なリズムプレイは、彼の音楽を大きく特徴づけるスウィングサウンドの道を切り開いたのだった。アームストロングのもう一つの武器、それは歌声だ。彼のトランペットと同じく独自性と影響力を持つ慈愛に満ちたしゃがれ声は、スキャットをアートの一形態へと高め、メインストリームの成功の階段を駆け上った。1930年代に突入するころまでには、彼はポップスターとしてヨーロッパをツアーしたり、ハリウッド映画に出演したり、陽気なビッグバンドを従えて歌ったりしていた。そして1947年、スウィングオーケストラの人気が下火になってきたのを受けて、アームストロングは小規模だが、より明敏なオールスターバンド(Louis Armstrong & His All Stars)としてデビュー。スタイルを変えたにもかかわらず、彼はポップチャートにとどまり、1950年代には「Mack the Knife」を、1960年代には「Hello, Dolly!」「What a Wonderful World」といったヒット曲を生み出すことに成功した。さらには、彼のアイコンとしての地位と国際的な名声が認められ、アームストロングは米国務省の文化大使に任命された。彼は1971年に他界したが、その作品の魅力と影響力は衰えることがなく、かつては上品とされなかったジャズのルーツを一生涯かけてアメリカの最高の文化的業績の一つに引き上げた成果として歴史に残り続けている。
- ジャンル
- ジャズ