10本のエピソード

『私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない…』で始まる新版放浪記、大正・昭和初期にかけての林 芙美子はどのように生きてきたのでしょうか。ご一緒にお楽しみいただければ幸いです。なお、文中には今日では不適切と思われる表現が含まれておりますが、そのまま読ませていただいておりますことをご了承くださいませ。  えぷろん

林芙美子 新版放浪記 第一‪部‬ えぷろん

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『私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない…』で始まる新版放浪記、大正・昭和初期にかけての林 芙美子はどのように生きてきたのでしょうか。ご一緒にお楽しみいただければ幸いです。なお、文中には今日では不適切と思われる表現が含まれておりますが、そのまま読ませていただいておりますことをご了承くださいませ。  えぷろん

    林 芙美子 放浪記第一部 その10(終)

    林 芙美子 放浪記第一部 その10(終)

    参照テキスト:青空文庫図書カード№1813

    音声再生時間:36分01秒
    shinpan-hourouki1-18~19a.mp3

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    (十月×日)
     窓外は愁々とした秋景色である。小さなバスケット一つに一切をたくして、私は興津(おきつ)行きの汽車に乗っている。土気(とけ)を過ぎると小さなトンネルがあった。

    サンプロンむかしロオマの巡礼の
    知らざる穴を出でて南す。

     私の好きな万里(ばんり)の歌である。サンプロンは、世界最長のトンネルだと聞いていたけれど、一人のこうした当のない旅でのトンネルは、なぜかしんみりとした気持ちになる。海へ行く事がおそろしくなった。あの人の顔や、お母さんの思いが、私をいたわっている。海まで走る事がこわくなった。――三門(みかど)で下車する。燈火がつきそめて駅の前は桑畑。チラリホラリ藁(わら)屋根が目についてくる。私はバスケットをさげたままぼんやり駅に立っていた。
    「ここに宿屋がありますでしょうか?」
    「この先の長者町までいらっしゃるとあります。」
     私は日在浜(ひありはま)を一直線に歩いていた。十月の外房州の海は黒くもりあがっていて、海のおそろしいまでな情熱が私をコウフンさせてしまった。只海と空と砂浜ばかりだ。それもあたりは暮れそめている。この大自然を見ていると、なんと人間の力のちっぽけな事よと思うなり。遠くから、犬の吠える声がする。かすりの半纏(はんてん)を着た娘が、一匹の黒犬を連れて、歌いながら急いで来た。波が大きくしぶきすると犬はおびえたようにキリッと首をもちあげて海へ向って吠えた。遠雷のような海の音と、黒犬の唸(うな)り声は何かこわい感じだ。
    「この辺に宿屋はありませんか?」
     この砂浜にたった一人の人間であるこの可憐(かれん)な少女に私は呼びかけてみた。
    「私のうちは宿屋ではないけれど、よかったらお泊りなさい。」
     何の不安もなく、その娘は私を案内してくれた。うすむらさきのなぎなたほおずきを、器用に鳴らしながら、娘は私を連れて家へ引返してくれた。
     日在浜のはずれで、丁度長者町にかかった砂浜の小さな破船のような茶屋である。この茶屋の老夫婦は、気持ちよく風呂をわかしてくれたりした。こんな伸々と自然のままな姿で生きていられる世界もある。私は、都会のあの荒れた酒場の空気を思い出すさえおそろしく思った。天井には、何の魚なのか、魚の尻尾(しっぽ)の乾いたのが張りつけてある。
     この部屋の電気も暗ければこの旅の女の心も暗い。あんなに憧憬(あこが)れていた裏日本の秋は見る事が出来なかったけれども、この外房州は裏日本よりも豪快な景色である。市振から親不知(おやしらず)へかけての民家の屋根には、沢庵石のようなのが沢山置いてあった。線路の上まで白いしぶきのかかるあの蒼茫(そうぼう)たる町、崩れた崖(がけ)の上にとげとげと咲いていたあざみの花、皆、何年か前のなつかしい思い出である。私は磯臭い蒲団にもぐり込むと、バスケットから、コロロホルムのびんを出して一二滴ハンカチに落した。このまま消えてなくなりたい今の心に、じっと色々な思いにむせている事がたまらなくなって、私は厭なコロロホルムの匂いを押し花のように鼻におし当てていた。

    (十一

    林 芙美子 放浪記第一部 その9

    林 芙美子 放浪記第一部 その9

    参照テキスト:青空文庫図書カード№1813

    音声再生時間:23分43秒
    20120415shinpan-hourouki1-17a.mp3

    (七月×日)
    「神戸にでも降りてみようかしら、何か面白い仕事が転がっていやしないかな……」
     明石行きの三等車は、神戸で降りてしまう人たちばかりだった。私もバスケットを降ろしたり、食べ残りのお弁当を大切にしまったりして何だか気がかりな気持ちで神戸駅に降りてしまった。
    「これで又仕事がなくて食えなきぁ、ヒンケルマンじゃないけれど、汚れた世界の罪だよ。」
     暑い陽ざしだった。だが私には、アイスクリームも、氷も買えない。ホームでさっぱりと顔を洗うと、生ぬるい水を腹いっぱい呑んで、黄いろい汚れた鏡に、みずひき草のように淋しい自分の顔を写して見た。さあ矢でも鉄砲でも飛んで来いだ。別に当もない私は、途中下車の切符を大事にしまうと、楠公(なんこう)さんの方へブラブラ歩いて行ってみた。
     古ぼけたバスケットひとつ。
     骨の折れた日傘。
     煙草の吸殻よりも味気ない女。
     私の捨身の戦闘準備はたったこれだけなのでございます。
     砂ぼこりのなかの楠公さんの境内は、おきまりの鳩と絵ハガキ屋が出ている。私は水の涸(か)れた六角型の噴水の石に腰を降ろして、日傘で風を呼びながら、晴れた青い空を見ていた。あんまりお天陽様が強いので、何もかもむき出しにぐんにゃりしている。
     何年昔になるだろう――十五位の時だったかしら、私はトルコ人の楽器屋に奉公をしていたのを思い出した。ニイーナという二ツになる女の子のお守りで黒いゴム輪の腰高な乳母車に、よくその子供を乗っけてはメリケン波止場の方を歩いたものだった。――鳩が足元近く寄って来ている。人生鳩に生れるべし。私は、東京の生活を思い出して涙があふれた。
     一生たったとて、いったい何時の日には、私が何千円、何百円、何十円、たった一人のお母さんに送ってあげる事が出来るのだろうか……、私を可愛がって下さる、行商をしてお母さんを養っている気の毒なお義父(とう)さんを慰めてあげる事が出来るのだろうか……、何も満足に出来ない私である。ああ全く考えてみれば、頭が痛くなる話だ。「もし、あんたはん! 暑うおまっしゃろ、こっちゃいおはいりな……」噴水の横の鳩の豆を売るお婆さんが、豚小屋のような店から声をかけてくれた。私は人なつっこい笑顔で、お婆さんの親切に報いるべく、頭のつかえそうな、アンペラ張りの店へはいって行った。文字通り、それは小屋のような処(ところ)で、バスケットに腰をかけると、豆くさいけれども、それでも涼しかった。ふやけた大豆が石油鑵(かん)の中につけてあった。ガラスの蓋をした二ツの箱には、おみくじや、固い昆布(こんぶ)がはいっていて、それらの品物がいっぱいほこりをかぶっている。
    「お婆さん、その豆一皿くださいな。」
     五銭の白銅を置くと、しなびた手でお婆さんは私の手をはらいのけた。
    「ぜぜなぞほっときや。」
     このお婆さんにいくつですと聞くと、七十六だと云っていた。虫の食ったおヒナ様のようにしおらしい。
    「東京はもう地震はなおりましたかいな。」
     歯のないお婆さんはきんちゃくをしぼったような口をして、優しい表情をする。
    「お婆さんお上りなさいな。」
     私がバスケッ

    • 23分
    林 芙美子 放浪記第一部 その8

    林 芙美子 放浪記第一部 その8

    参照テキスト:青空文庫図書カード№1813

    音声再生時間:45分58秒
    shinpan-hourouki1-15~16a.mp3

    (十二月×日)
     真黄いろに煤(すす)けた障子を開けて、消えかけては降っている雪をじっと見ていると、何もかも一切忘れてしまう。
    「お母さん! 今年は随分雪が早いね。」
    「ああ。」
    「お父さんも寒いから難儀しているでしょうね。」
     父が北海道へ行ってから、もう四カ月あまりになる、遠くに走りすぎて商売も思うようになく、四国へ帰るのは来春だと云う父のたよりが来て、こちらも随分寒くなった。屋並の低い徳島の町も、寒くなるにつれて、うどん屋のだしを取る匂いが濃くなって、町を流れる川の水がうっすらと湯気を吐くようになった。泊る客もだんだん少くなると、母は店の行燈(あんどん)へ灯を入れるのを渋ったりしている。
    「寒うなると人が動かんけんのう……」
     しっかりした故郷と云うものをもたない私達親子三人が、最近に落ちついたのがこの徳島だった。女の美しい、川の綺麗(きれい)なこの町隅に、古ぼけた旅人宿を始め出して、私は徳島での始めての春秋を迎えたけれど、だけどそれも小さかった時の私である。今はもうこの旅人宿も荒れほうだいに荒れて、いまは母一人の内職仕事になってしまった。父を捨て、母を捨て、東京に疲れて帰ってきた私にも、昔のたどたどしい恋文や、ひさし髪の大きかった写真を古ぼけた箪笥(たんす)の底にひっくり返してみると懐しい昔の夢が段々蘇(よみがえ)って来る。長崎の黄いろいちゃんぽんうどんや、尾道の千光寺の桜や、ニユ川で覚えた城ヶ島の唄やああみんななつかしい。絵をならい始めていた頃の、まずいデッサンの幾枚かが、茶色にやけていて、納戸(なんど)の奥から出て来るとまるで別な世界だった私を見る。夜、炬燵(こたつ)にあたっていると、店の間を借りている月琴(げっきん)ひきの夫婦が飄々(ひょうひょう)と淋しい唄をうたっては月琴をひびかせていた。外は音をたててみぞれまじりの雪が降っている。

    (十二月×日)
     久し振りに海辺らしいお天気なり。二三日前から泊りこんでいる浪花節(なにわぶし)語りの夫婦が、二人共黒いしかん巻を首にまいて朝早く出て行くと、煤けた広い台所には鰯(いわし)を焼いている母と私と二人きりになってしまう。ああ田舎にも退屈してしまった。
    「お前もいいかげんで、遠くへ行くのを止めてこっちで身をかためてはどうかい。お前をもらいたいと云う人があるぞな……」
    「へえ……どんなひとですか?」
    「実家は京都の聖護院(しょうごいん)の煎餅(せんべい)屋でな、あととりやけど、今こっちい来て市役所へ勤めておるがな……いい男や。」
    「…………」
    「どやろ?」
    「会うてみようかしら、面白いなア……」
     何もかもが子供っぽくゆかいだった。田舎娘になって、初々しく顔を赤めてお茶を召し上れか、車井戸のつるべを上げたり下げたりしていると、私も娘のように心がはずんで来る。ああ情熱の毛虫、私は一人の男の血をいたちのように吸いつくしてみたいような気がする。男の肌は寒くなると蒲団のように恋しくなるものだ。
     東京へ行きましょう。夕方の散歩に、いつの間にか足が向くのは駅への道だ。駅の時間表を見ていると涙がにじんで来て仕方がない。

    林 芙美子 放浪記第一部 その7

    林 芙美子 放浪記第一部 その7

    参照テキスト:青空文庫図書カード№1813

    音声再生時間:37分53秒
    shinpan-hourouki1-13~14a.mp3

    (十月×日)
     秋風が吹くようになった。俊ちゃんは先の御亭主に連れられて樺太に帰ってしまった。
    「寒くなるから……」と云って、八端(はったん)のドテラをかたみに置いて俊ちゃんは東京をたってしまった。私は朝から何も食べない。童話や詩を三ツ四ツ売ってみた所で白い御飯が一カ月のどへ通るわけでもなかった。お腹がすくと一緒に、頭がモウロウとして来て、私は私の思想にもカビを生やしてしまうのだ。ああ私の頭にはプロレタリアもブルジュアもない。たった一握りの白い握り飯が食べたいのだ。
    「飯を食わせて下さい。」
     眉をひそめる人達の事を思うと、いっそ荒海のはげしいただなかへ身を投げましょうか。夕方になると、世俗の一切を集めて茶碗のカチカチと云う音が階下から聞えて来る。グウグウ鳴る腹の音を聞くと、私は子供のように悲しくなって来て、遠く明るい廓(くるわ)の女達がふっと羨(うらや)ましくなってきた。私はいま飢えているのだ。沢山の本も今はもう二三冊になってしまって、ビール箱には、善蔵の「子を連れて」だの、「労働者セイリョフ」、直哉の「和解」がささくれているきりなり。
    「又、料理店でも行ってかせぐかな。」
     切なくあきらめてしまった私は、おきゃがりこぼしのだるまのように、変にフラフラした体を起して、歯ブラシや石鹸や手拭を袖に入れると、私は風の吹く夕べの街へ出て行った――。女給入用のビラの出ていそうなカフエーを次から次へ野良犬のように尋ねて、只食う為(た)めに、何よりもかによりも私の胃の腑(ふ)は何か固形物を欲しがっているのだ。ああどんなにしても私は食わなければならない。街中が美味(おい)しそうな食物で埋っているではないか! 明日は雨かも知れない。重たい風が飄々と吹く度に、興奮した私の鼻穴に、すがすがしい秋の果実店からあんなに芳烈な匂いがしてくる。

            *

    (十月×日)
     焼栗の声がなつかしい頃になった。廓を流して行く焼栗屋のにぶい声を聞いていると、妙に淋しくなってしまって、暗い部屋の中に私は一人でじっと窓を見ている。私は小さい時から、冬になりかけるとよく歯が痛んだものだ。まだ母親に甘えている時は、畳にごろごろして泣き叫び、ビタビタと梅干を顔一杯塗って貰っては、しゃっくりをして泣いている私だった。だが、ようやく人生も半ば近くに達し、旅の空の、こうした侘しいカフエーの二階に、歯を病んで寝ていると、じき故郷の野や山や海や、別れた人達の顔を思い出してくる。
     水っぽい眼を向けてお話をする神様は、歪んだ窓外の飄々としたあのお月様ばかりだ……。

    「まだ痛む?」
     そっと上って来たお君さんの大きいひさし髪が、月の光りで、くらく私の上におおいかぶさる。今朝から何も食べない私の鼻穴に、プンと海苔(のり)の香をただよわせて、お君さんは枕元に寿司皿を置いた。そして黙って、私の目を見ていた。優しい心づかいだと思う。わけもなく、涙がにじんできて、薄い蒲団の下から財布を出すと、君ちゃんは、「馬鹿ね!」と、厚紙でも叩くような軽い痛さで、お君さんは、ポンと私の手を打った。そして、蒲団の裾をジタジタとおさ

    林 芙美子 放浪記第一部 その6

    林 芙美子 放浪記第一部 その6

    参照テキスト:青空文庫図書カード№1813

    音声再生時間:38分47秒
    shinpan-hourouki1-11~12a.mp3

    (七月×日)
     心が留守になっているとつまずきが多いものだ。激しい雨の中を、私の自動車は八王子街道を走っている。
     もっと早く!
     もっと早く!
     たまに自動車に乗るといい気持ちなり。雨の町に燈火がつきそめている。
    「どこへ行く?」
    「どこだっていいわ、ガソリンが切れるまで走ってよ。」
     運転台の松さんの頭が少し禿げかけている。若禿げかしら。――午後からの公休日を所在なく消していると、自分で車を持っている運転手の松さんが、自動車に乗せてやろうと云ってくれる。田無(たなし)と云う処まで来ると、赤土へ自動車がこね上ってしまって、雨の降る櫟(くぬぎ)林の小道に、自動車はピタリと止ってしまった。遠くの、眉程の山裾に、灯がついているきりで、ざんざ降りの雨にまじって、地鳴りのように雷鳴がして稲妻が光りだした。雷が鳴るとせいせいしていい気持ちだけれど、シボレーの古自動車なので、雨がガラス窓に叩かれるたび、霧のようなしぶきが車室にはいってくる。そのたそがれた櫟の小道を、自動車が一台通ったきりで、雨の怒号と、雷と稲妻。
    「こんな雨じゃア道へ出る事も出来ないわね。」
     松つぁんは沈黙って煙草を吸っている。こんな善良そうな男に、芝居もどきのコンタンはあり得ない。雨は冷たくていい気持ちだった。雷も雨も破れるような響きをしている。自動車は雨に打たれたまま夜の櫟林にとまってしまった。
     私は何かせっぱつまったものを感じた。機械油くさい松さんの菜っぱ服をみていると、私はおかしくもない笑いがこみ上げて来て仕方がない。十七八の娘ではないもの。私は逃げる道なんか上手に心得ている。
     私がつくろって言った事は、「あんたは、まだ私を愛してるとも云わないじゃないの……暴力で来る愛情なんて、私は大嫌いよ。私が可愛かったら、もっとおとなしくならなくちゃア厭!」
     私は男の腕に狼(おおかみ)のような歯形を当てた。涙に胸がむせた。負けてなるものか。雨の夜がしらみかけた頃、男は汚れたままの顔をゆるめて眠っている。

     遠くで青空(れいめい)をつげる鶏の声がしている。朗かな夏の朝なり。昨夜の汚ない男の情熱なんかケロリとしたように、風が絹のように音をたてて流れてくる。この男があの人だったら……コッケイな男の顔を自動車に振り捨てたまま、私は泥んこの道に降り歩いた。紙一重の昨夜のつかれに、腫(は)れぼったい瞼を風に吹かせて、久し振りに私は晴々と郊外の路を歩いていた。――私はケイベツすべき女でございます! 荒(すさ)みきった私だと思う。走って櫟林を抜けると、ふと松さんがいじらしく気の毒に思えてくる。疲れて子供のように自動車に寝ている松さんの事を考えると、走って帰っておこしてあげようかとも思う。でも恥かしがるかもしれない。私は松さんが落ちついて、運転台で煙草を吸っていた事を考えると、やっぱり厭な男に思え、ああよかったと晴々するなり。誰か、私をいとしがってくれる人はないものかしら……遠くへ去った男が思い出されたけれども、ああ七月の空に流離の雲が流れている。あれは私の姿だ。野花を摘み摘み、プロヴァンスの唄でもうたいましょう。

    林 芙美子 放浪記第一部 その5

    林 芙美子 放浪記第一部 その5

    参照テキスト:青空文庫図書カード№1813

    音声再生時間:45分25秒
    shinpan-hourouki1-9~10a.mp3

    参考サイト:鹿鳴
    ★ 上記より参考させていただきました。ありがとうございました。  

    楊白花 胡皇后
    陽春二三月 楊柳齊作花 春風一夜入閨闥 楊花飄蕩落南家 含情出戸脚無力 拾得楊花涙沾臆 秋去春來雙燕子 愿含楊花入●裏     

    陽春二三月 楊柳 斉(ひと)しく花を作(な)す 春風 一夜 閏闥(けいたつ)に入り 楊花 飄蕩して南家に落つ 情を含みて戸(こ)を出づれば脚に力無く 楊花を拾ひ得て涙、臆(むね)を沾(うる)おす 秋去り春來(きた)る双燕子 愿(ねが)はくは楊花を含みて●裏(かり)に入れ

    (六月×日)
     雨が細かな音をたてて降っている。

    陽春二三月  楊柳斉作レ花
    春風一夜入二閨闥一 楊花飄蕩落二南家一
    含レ情出レ戸脚無レ力 拾二得楊花一涙沾レ臆
    秋去春来双燕子 願銜二楊花一入 裏一

     灯の下に横坐りになりながら、白花を恋した霊太后(れいたいごう)の詩を読んでいると、つくづく旅が恋しくなってきた。五十里さんは引っ越して来てからいつも帰りは夜更けの一時過ぎなり。階下の人は勤め人なので九時頃には寝てしまう。時々田端の駅を通過する電車や汽車の音が汐鳴りのように聞えるだけで、この辺は山住いのような静かさだった。つくづく一人が淋しくなった。楊白花のように美しいひとが欲しくなった。本を伏せていると、焦々(いらいら)して来て私は階下に降りて行くのだ。
    「今頃どこへゆくの?」階下の小母さんは裁縫の手を休めて私を見ている。
    「割引なのよ。」
    「元気がいいのね……」
     蛇の目の傘を拡げると、動坂の活動小屋に行ってみた。看板はヤングラジャと云うのである。私は割引のヤングラジャに恋心を感じた。太湖船の東洋的なオーケストラも雨の降る日だったので嬉しかった。だけど所詮(しょせん)はどこへ行っても淋しい一人身なり。小屋が閉まると、私は又溝鼠(どぶねずみ)のように部屋へ帰って来る。「誰かお客さんのようでしたが……」小母さんの寝ぼけた声を背中に、疲れて上って来ると、吉田さんが紙を円めながらポッケットへ入れている処だった。
    「おそく上って済みません。」
    「いいえ、私活動へ行って来たのよ。」
    「あんまりおそいんで、置手紙をしてたとこなんです。」
     別に話もない赤の他人なのだけれど、吉田さんは私に甘えてこようとしている。鴨居(かもい)につかえそうに背の高い吉田さんを見ていると、私は何か圧されそうなものを感じている。
    「随分雨が降るのね……」
     これ位白ばくれておかなければ、今夜こそどうにか爆発しそうで恐ろしかった。壁に背を凭せて、かの人はじっと私の顔を凝視(みつ)めて来た。私はこの男が好きで好きでたまらなくなりそうに思えて困ってしまう。だけど、私はもう色々なものにこりこりしているのだ。私は温(おと)なしく両手を机の上にのせて、灯の光りに眼を走らせていた。私の両の手先きが小さく、慄えている。一本の棒を二人で一生懸命に押しあっている気持ちなり。
    「貴女は私を嬲(なぶ)っているんじゃないんですか?」
    「どうして?」
     何と云う間の抜けた受太刀だろう。私の生々しい感傷の中へ巻き込まれていらっしゃるきりではありませんか……私は口の内に

カスタマーレビュー

4.5/5
4件の評価

4件の評価

JillyHeen

放浪記@えぷろん

この組み合わせが、最高!(^^)

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